06 人が問うのはどのような場合か(2) (20201013)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?」

 前回挙げた拙論「問題の分類」では、「意図と現実の矛盾」という「問題状況」を、認識問題状況、実践問題状況、決定問題状況、という3つに区別した。現在私は、問いを理論的問いと実践的問いの二つに区別するが、この二種類の区別の関係は、ここでの3つの区別と次のように関係するだろう。

  「理論的問い」「認識問題状況」での問い

  「実践的問い」「実践問題状況」あるいは「決定問題状況」での問い

さて、この論文では、問いは「意図と現実の矛盾」から生じると述べたが、それについて二点修正したい。

 まず、「矛盾」を「衝突」に修正したい。その理由は、この論文でも述べていたことである。つまり、「ここで「意図と現実の矛盾」というのは、正確には、意図が目指している状態を記述した文と、現実の状態を記述した文が両立不可能ということである。」つまり、正確にいえば、意図と現実は矛盾しないからである。そこで、問いは「意図と現実の衝突」から生じる、と言う方がよいだろう。

 第二の修正点は、「意図と現実の衝突」だけでなく「願望と現実の衝突」から生じる場合もあることから、問いは「願望/意図と現実の衝突」から生じる、と変更することである。これを実践的問いで説明しよう。

 例えば「ケーキを食べたい」という願望と「ケーキがない」という事実の衝突がある場合にも、「どうやってケーキを食べようか?」という問いが生じるだろう。とこで、願望と意図の間には次のような違いがある。

<違い1:願望(欲求、欲望など)と願望の衝突、意図と意図の矛盾>

 私たちは互いに衝突する願望を持ちうる(たとえば、「TVを見たい」と「勉強したい」というように)。そして、二つの願望が衝突するとしても、その衝突を解消するために願望を修正しようとはしない。TVを見たいと勉強したいという二つの願望は衝突するが、矛盾するのではない。なぜならこれらは両立可能だからである。

 他方で、私たちは互いに矛盾する意図を持つことはない(たとえば、「TVをみよう」と「TVを見るのをやめよう」は矛盾する)。そして、もし二つの意図が矛盾することに気づいたら、直ちに一方ないし両方の意図を修正するだろう。

<違い2:意図は実現可能性を前提するが、願望は実現可能性を前提しない>

 「Aしよう」という意図は、「Aできる」ということを前提している。Aできるかどうかわからないときには、私たちは「Aしよう」とは思わないだろう。「Aしよう」と思うのは、Aできると信じている場合である。つまり、Aできることを信じているが、どのようにしてそうしたらよいのか解らないときに、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うのである。

 他方で、Aできるかどうかわからないときにも、私たちは、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。つまり、「Aしよう」と意図しているのではなく、「Aしたい」と願望しているときにも、「Aするには、どうすればよいのか?」と問うだろう。

 つまり、「Aするには、どうすればよいのか?」と問う時には、「Aしよう」と意図している時と、「Aしたい」と願望しているときの二種類がある。

投稿者:

irieyukio

問答の哲学研究、ドイツ観念論研究、を専門にしています。 2019年3月に大阪大学を定年退職し、現在は名誉教授です。 香川県丸亀市生まれ、奈良市在住。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です